(イ)やくしみち道標
八広4丁目交番の中央通りに面した植え込みの中にあるこの道標は、昭和40年頃下水工
事のとき掘り起こされたもので、木下川薬師への道標どぁる。享保年間に将軍吉宗公が薬
師参拝の際(1717年)大畑村の人々に建てさせたものである。正面に「右、やくしみ
ち」、右面に「左、ゑどみち」、左面に「大畑村講中」と書かれているが、薬師参りの人
々に長い間、道案内をして来たものである。「ゑどみち」は江戸への道のことで、木下川
薬師は貞観2年(860年)浄光寺として、創建されたと伝えられている関東屈指の名刺で
ある。現在この寺は葛飾区東四つ木1丁目にあるが、荒川開削以前は木下川の下流にあっ
た。したがってこの道標も、初めからこの地に在ったのではなく、他から移されたものの
ようである。
(ロ)庚申堂
八広5丁目の中央通りと、はなみずき通りが交差した横丁の露地を入った4軒目にある石
造りの庚申堂は、向かって左から享保5年(1720年)
9月吉日、大畑村地蔵尊講中に
よる地蔵尊菩薩像で中央が元禄2年(1689年)大畑村、森田平兵衛他、11名により建
立された板駒型庚申供養塔、右端に観音菩薩像が祀ってある。境内には馬頭観音の石柱が
あり、入って右側に大正14年に安置された、南葛88ヶ所の内、54番札所の、災難厄
除大師の大師堂があって、毎年10月20日に5ヶ町会の人達が集まって庚申際を行って
いるが、戦前は縁日が開かれ大賑わいであったという。
(ハ)三輪里稲荷神社
真言宗知山派の正覚寺と背中合わせのところにあり、慶長19年(1614年)、出羽國
(山形県)湯殿山の修験者といわれた大日坊長が、大畑村の総鎮守として、羽黒大神の御霊
の分霊を勧請し祀ったのが、三輪里神社である。この当時江戸市中に悪病が流行ったため
、大日坊長は湯殿山の秘法「こんにゃくの護符」を串に刺して人々に授与した。初午の日
にこの護符をいただき、煎じて呑めば咽喉や声の病に神験あらたかといわれて、護符を求
めて集う人達で賑わった。町会の神輿は昭和27年9月7日、西七神社睦の手によって新
調され、睦長が大熊仲次郎氏、副睦長が小用繁次郎氏で、祭礼はこの睦によって運営され
ていたが、後に睦が解散し町会1本立てで奉納されるようになった。
(ニ)古伊万里資料館
八広中央通りから道1本入ったエーエス自動車整備工場2階の、一見すると普通の住居の
ようなドアをあけて館内に入ると、そこには見事な江戸の文化が広がっている。まるで江
戸時代の武家か町人の屋敷の一間にタイムスリップしたかのようだ。帳場箪笥などのさま
ざまな種類の箪笥や飾り棚、火鉢に刀入れ、水屋ふうのショーケース、有田地方で生産さ
れた古伊万里焼きの大皿や湯呑や小鉢などが、過去から未来を連想するかのように並べら
れている。ここに集められている古伊万里は藍色で描かれた図柄が蛸の足を図案化した
「蛸唐草」と呼ばれる4百点の逸品ばかり。これを収集された館長の應後氏は、自身に夢
と希望を与えてくれたので(ゆめ唐草)と名付けられた。千差万別のこれらの模様は見飽
きることのない美しさで、江戸時代の町場の雰囲気をかもし出している。古い箪笥に掛け
られた花模様の藍染布や、その上にさり気なく置かれた一輪挿し、窓の障子や間仕切りの
板戸など、どれひとつ取っても、古伊万里と絶妙にマッチしていて、如何にも生まれた時
代を彷彿させる貴重な骨董品ばかりで、開館日は毎週、土曜日で
ある。
(ホ)八広中央通り
当町会の4丁目と5丁目を分ける八広中央通りは、以前はそのものズバリ「疎開道路」と
呼ばれていた。太平洋戦争の戦局が急迫する中、首都防衛の号令下、密集していた木造の
住家を、戦車や学徒動員兵らが一挙に取り壊し、僅か1年余りで完成させた道路である。
東京大空襲では、この道を多くの人達が荒川へと逃れ、九死に一生を得たといわれる。明
治通りから荒川放水路に向かう1.3km、幅11mのこの区道は、国が道路新設を計画
して、強制買収をしたもので、「町中総懸かりで、慣れ親しんだ町並みの一軒一軒に、綱
をかけて泣き泣き引き倒した」と言う土地の人達の辛い犠牲の産物である。当時、都内の
各地で行われた空襲による延焼防止の建物疎開と混同され、誰言うとなく「疎開道路」と
いう名がついたという。昭和19年の末には未舗装ながら南北にのびた地元最初の、直線
大通りが完成したものである。(大空襲の時は、猛火を逃れて布団など引きずるようにし
て荒川に逃げたが、この道のお陰で大勢の人の命が救われた)と、戦禍を越えて息つく先
人達の誇り高き心意気が気骨溢れる町の人達の暮らしが、ここには生き続いているのだ。
中央通りにも一時期浅草寿町行きの都バスと京成バスが運行していたがまもなく廃止され
た。
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